若い人には関係ないと今は思うだろうが、人は必ず老いるのです。
あっという間に若い時は過ぎます。人は生まれたら、ただひたすら「老い」に向かう生き物です。悲しいかなこれが現実です。
思い出は心の中に留めておこう。記憶が薄れて忘れてしまってもいいのだ。
ずっと残しておこうと思ってもそうはいかないのが現実だ。
これから何年か何十年か共に生きるパートナーもいない身の上ならなおさらである。周りの人に迷惑な物は残さないでおこう。
面倒をかけないようにしておこう。
エンディングノートに記録しておこう。
高価なバッグも必要ない。
機能的な使い易いものだけ残す事にした。
他人にあげることは簡単だが、「知り合いなどが使っているのを目にするのも何か違和感があった」いっそのこと粗大ゴミに出そうともおもったが、それも勿体無いことである。
買い取りしてくれる業者があちこちにあるではないか。
少しは長い間の「お世話代」になるならと、買い取りにだした。
あまり使っていない物は結構買い取り価格もよかった。
10円や100円ではがっかりだが、そういうこともなく処分出来た。
捨てる勇気と活かす勇気、両方が混雑するのが「断捨離」である!
学生時代に使っていた音響機器も今は使わない。
親に買って貰ったものであるが、沢山使わせてもらった、感謝を述べてリサイクルショップに引き取ってもらった。タダ同然の価値しかないけれど、「おつかれさま、ありがとうございました」と心の中でお別れの言葉をつぶやいた。
そうなると、聞くことが出来なくなった「レコード」も処分する事になる。今や骨董品となりつつあるプレーヤーがなくなったのである。
聞くことが出来ない。一部のマニアの方はいるらしいが、絶滅危惧種の世界である。
一枚一枚に思い出があり、手に取りながら、「あっ これは、あの時にあの人が買ってくれたものだ」とか「このレコードを聴きながら涙したっけなあ」とか思い出に浸った。
何件かレコードを引き取ってくれる所を探したが、見つからず欲しい人が見つかるネットでの処分を考えている。
貴金属などは、高価買い取りの対象であるから、現在使っているお気に入りのみ残し、あとは全て処分した。
身につける物は他人に使ってもらうのは好きではない。
買い取りなら溶かして材料として再生されるのでそれならばと決めた。
洋服・衣類が大変
一番大変なのは「洋服、衣類」である。
「今は懐かしバブルの時代の洋服」肩パッド入りだが、最近はメディアで着用する人が沢山いる。
買い取りに出した。
スーツ類など、数千円で引き取ってくれた。
きれいに上下が揃っていて、ちょっと有名なブランドの物であれば買い取り価格もそれなりに判断してくれるのだ。
すべて「クリーニング済み」だったことも評価に入っているのだが。
大型の家具も処分した。
和ダンスなど着物を着る機会もないし、手入れが大変である。
家具を処分したということは、着物ももちろん処分しなければならない。
着物はすべて仕立ててもらったものであるから、サイズが合わないと難しいものがある。
最近はレンタルで外国人の人が多いので身長が170センチ以上の物なら需要があるが、それ以下だと難しいとのこと。
しかし、正絹の物で、スワトー刺繍の物や、手染めの有名作家の物は例外である。
数点だが買い取りしてもらった。残りの物は和小物などを作る工房で需要があるということで、引取先を吟味中である。
テーブルや椅子などの家具はブランド物でないと引き取りも不可能だと知った。
そんな高価な家具を一般人が持てるはずもない。
組立て式の安価なものは、思い切って粗大ゴミに出した。
他の洋服ダンスやチェスト、ソファーなどは知り合いに渡った。大事に使ってくれるとのこと、まずは安心した。
最後にまとめ
必要最小限の普段どうしてもないと困るものだけを残す知恵。
それが大事だと痛感したのである。「大事にしていた物を処分する」ということは、強い意思のもとに行動しないと出来ない事だ。
いつか使うかも?とかまだ使えるとか、まだ、今度、いつか は「永遠に使う事はない物」である。物への執着という感情はズルズルと続くものだ。
その感情を断ち切るのが「ダンシャリ」でもあるのだ。
人はいつまでも思い出の中で生きて行くことは出来ないのだ。